実家から帰るとき、途中まで兄に送ってもらいました。
車中でも、話題は新型肺炎の話になります。
で、兄が私に「○○(私のことです)がかかったら、危ないね」と言います。私を知っている人は、みんなそう思っているようです。
というのは、以前重篤な肺炎になり、死にかけたことがあるからです。
45年ほども前のことで、当時は新型でなくても、肺炎の治療法が今ほど進んでいなかったようです。
私の肺炎体験
それは突然やって来た
高校1年の3学期初日、数学の時間のことでした。急にひどく頭が痛くなったのです。たぶん体もだるかった。耐えがたかったのでしょうね(45年前なので記憶もおぼろ)、早退することにしました。何とこれが幼稚園から、小学校・中学校・高校を通して初の早退でした!それまで無遅刻・無早退・無欠席の人生だったのです。
帰宅後(当時は伯母宅に下宿していました)病院に行きましたが、患者さんがいっぱいで、なかなか自分の順番になりません。インフルエンザが流行していたころのことです。待てないほど苦しかったのに、高校生だった私はそのことを申し出ることができず、診察前にタクシーで帰りました。(その時は歩けそうになかった)
夜間の往診と救急車
もちろん帰宅後は布団に入り横になっていました。夜中になり、ようすがおかしかったのでしょう。伯母と隣家に住んでいたいとこがかかりつけ医を呼んでくれました。そのおじいさん先生は、すぐに救急車を呼ぶように手配。「こんなお年寄りの先生を夜中に呼び出して申し訳ないなあ。明日の朝からも診察があるのだろうに」と思い、「すみません。こんな夜中に。大丈夫ですか?」と言ったら「そんな心配をしている段じゃない」みたいなことを言われた記憶があります。
酸素マスクをつけられ、担架に乗せられたときには「こりゃあ、学校に行ったとき自慢できるなあ」なんてバカなことを考えていました。
3ヶ月の入院~危篤状態~
でも、それから3ヶ月ずっと病院で、私は学校に行くどころか、ベッドから出られない暮らしをすることになったのです。
1~2週間(あいまいです)意識不明になったり、戻ったりだったようで、のちのち「今夜が山場です」みたいなことも言われたと、別の従姉妹が言っていました。
幻覚もよく見た
幻覚もよく見ていて、今でも覚えているのは、「病室の壁全体に人形がいる」というもの。変わった病院だなあと思っていました。あと、病室内に洞穴があり、そこに子どもたちが座っているというのもありました。よく「あの子たちがうるさいから、どこかにやって」と言って、「目を閉じて黙って寝なさい」と言われていました。あと、自分の体が草原になっていて、木々が生え、そのうえに鳥たちががいるというの。あれは何だったのでしょう。
頭を動かすことすらできなかった
状態が落ち着いても、自分の頭を動かすことすらできませんでした。右を向きたいなあ思ったときには、付き添いの両親に「右を見せて」と言って、頭を動かしてもらっていた記憶がありますから、相当消耗していたのだと思います。
多くの人に見守られていた
この時は、ほんとうに息をするのも苦しいくらいに大変な毎日だったのですが、私には、まだ若かった両親・かわいがってくれる伯母やいとこ夫婦など、頼れる存在が何人もいたので、なんの心配もせずに、ただただ寝ていることができました。
一度も鉛筆を持つこともなかった3ヶ月
高校一年生の冬、3ヶ月の間、一度も鉛筆を持つことなく、ひたすら寝ていました。
周りのものも、勉強が遅れるねえなんて言いません。死にそうだったのですから。
本当はもう少し、入院の必要があったようですが、腕に毎日する注射は痛いし、4月からは登校したいしというので、春休みに入る頃に自宅療養にしてもらいました。退院するときの体重が36キロ(159センチ)だったのを覚えています。
ちなみに、4月登校後初の数学の模擬試験は14点でした。でも、大して気にすることもなく、今まで通りの勉強生活に戻りました。
木綿のハンカチーフが流行った冬の出来事です
テレビもない個室で(テレビがあったとしても見る気力がなかった)、聞いたのはラジオだけ。だからその年のことはよく覚えています。「木綿のハンカチーフ」と「およげ!たいやきくん」が流行り、ロッキード事件が世間をにぎわわせた冬の出来事です。
重い肺炎になった私がその後どうなったか?
気管支に後遺症が残り、ちょっとした風邪でもこじらせ、咳や痰の出やすい体になりました。まあ、どちらかと言うと、体が弱い方です。
とは言え、高校生活を無事終え、その後大学に進学し、就職、結婚し、子どもを産み育て、現在に至ります。
そんな私ですから、手洗いうがいを心がけ、睡眠をよく取り、コロナウイルスを避けたいものだと願っていますが、こればかりは……。
とにかく、この流行、早く終わってほしいですね。