「大河の一滴」を読み返し、受けてきた恩について思う

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テレビでやたらと「大河の一滴」のことを言うの聞き、本部屋にあったよなと持って降りてみた。

平成10年4月発行とあるので、22年前の本だ。

ものすごくきれいなので、多分買ってはみたものの、さして読み込まず、パラ~っとめくった程度なんだろうと思う。

でも、断捨離のたびに一応手に取り、残したところを見ると、いつか読もうとは思っていたのだろう。

 

読み進めていくと、中に、平壌で敗戦を迎えた五木寛之さんの経験談が出てくる。

 

私は少年のころ、旧日本帝国の植民地で敗戦を迎えた。そして言語に絶する混乱のなかを、かろうじて生きのびて母国へ引き揚げ、なんとかきょうまで暮らしてきた。その時期のことを考えるたびに、私は思わず目を伏せ、声が小さくなってしまう。あの非人間的な混乱のなかで、旅券をもたない敗戦国の難民、そして旧植民地支配者の一員としてすごした二年間は思い出したくないことばかりである。

 

かの地で、母親をなくされた五木さん。父親は戦争に取られていたのだろうか。

 

三十八度線の境界線を十三歳の私は、妹を背負い、弟の手を引いて走りに走った。弟が力つきて倒れれば、迷わず置いて走りつづけるつもりだった。自己保存の無意識の生のエネルギーが、栄養失調の私の体を前へ前へとひたは知らせたのだろう。

 

読んだあと、同じような経験をした、父のいとこのことを思いだした。

 

父のいとこは台湾で終戦を迎えたそうだ。五木さんと同じく、その地で母親をなくし、父親はシベリアに抑留されていたとのこと。

小学生だった父のいとこは、母親の遺骨を持ち、弟二人の手を引き、命からがら、引き上げてきたとのこと。

帰国後は、祖父母の家に身を寄せ、父の帰国を待ったとのことだが、父親が帰国できるのかもわからず、だれもが貧しい時代、さぞ心細い思いをしたことだろう。

 

泣き言など言わない人だったが、残留孤児の帰国のニュースを見ているときに、一歩間違えば、自分たちもあの中にいたと言っていたとのこと。

 

その父のいとこと、お父さん(数年後帰国したとのこと)は、朗らかでとても心優しい人たちだった。(どちらももう故人)

私など、甥の子どもに過ぎないのに就職の試験の時など、何日も家に泊まらせてくれたり…。おおらかで、まったく恩着せがましくないので、のんびり過ごさせてもらっていた。帰国後、再婚した奥さんもとてもやさしい方だった。

私が大叔父のところに滞在していると、父のいとこも、当時は超忙しい生活をしていたのに、必ず、顔をのぞかせてくれ、ニコニコ・淡々と接してくれたものだ。

 

思い返せば、ほんとうにお世話になったのに、その後その恩にさして報いた記憶がない。(なんとも、情けない)

(そういうことがたくさんある…)

 

それなのに、60歳にもなって、時折「あの人にあんなことしてあげたのに、、、」なんてけちくさいことを、思うことがある。さすがに言いはしませんよ。

 

受けた恩に報いていない数々の記憶。。。。

あの時受けた恩を、ここで返させてもらっている、せめてそういうことにしてもらわないととんでもない恩知らずだ。

 

大叔父や大叔母、そして父のいとこさんを、なつかしく、そしてちょっぴり切なく思い出させてくれた「大河の一滴」でした。

 

 

 

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