お子さんが小学校に入学する。
お子さんも、ドキドキでしょうが、親御さんもドキドキだったりしますよね。
ムスメが小学に入学したのはもう20年ほど前。一人っ子だったので、サンプル1ですが、私がやってみて、よかったなあと思うことを紹介します。
私が意識した4つのこと
連絡帳を大切にする
連絡帳。入学当初は、家庭と先生双方が何か用があるときに書き込んで、子どもに持たせるようですが、6月も半ばを過ぎると、先生が板書されたことなどを、子ども自身が書いて、持ち帰ってくるようになります。(後には子ども自身が考えてメモしたり)
1年生の子どもにとっては、これをていねいに的確に書くだけでも、なかなかの一大事です。
私は、確認印を押すだけではなく、「じがじょうずになりましたね。」とか「あしたのフェスティバルはたのしそうですね」とか、内容に応じ、ちょっとしたひと言を楷書で書くようにしていました。
そうすると、子どもも私の書くことを楽しみにするし、先生も意外に見て下さっていて、話に加わってくださったりするのです。
音読の時間を楽しむ
ムスメが小学校低学年の頃は、音読をして、それを親に聞いてもらい、サインをもらってくるという宿題がよく出されていました。(今もそうでしょうか?)
私は当時フルタイムで働いていましたが、その時間だけは(といったところで10分かそこらですが)、100パーセント、ムスメの音読に集中し、その物語の中身やムスメの読み方について、ムスメとあれこれ言い合って、楽しんでいました。
教えすぎない
子どもは時々、わからないところを聞いてきたりします。そういうときに、ここぞとばかりにあれこれ教えようとせずに、聞かれたことだけを教えるようにしていました。
妊娠中か出産後か忘れましたが、ある科学者の「教えすぎるのはよくない。子どもに教えるときは70パーセントくらいにとどめると、子どもはほっといても、もっと知りたいと思うものだ。それを、もっともっとと詰め込むからやる気がなくなるのだ」ということばが心に残っていたからです。
いろんなことばに触れたでしょうが、このことばは、なぜだか強烈に印象に残こり、子どもと接するときの指針になったように思います。
行き着くところ、「地球のどこかでこの人が幸せに生きていてくれたらありがたい」
とは言え、子どもと接していると「あ~、もうね~」「もっとこうしたらいいのに」「どうしてこんなことを!」と思うこともあります。
たまには感情的になったこともありますが、たいていは「自分の子ども時代と比べたら上出来」とか「ま、言うだけのことは言ったのだから、あとはこの人の問題。子どもにあれこれ言わずに、私自身が勉強しよう」なんて思っていました。
親がそんなだと、子どももそのうちそれなりに取り組みます。
あといつも思っていたのは(大人になった今でも)「地球のどこかでこの人が幸せに生きていてくれたら、ありがたい」ということです。
だって、ふだん通り、ただ道を歩いていただけなのに、その時崖が崩れて亡くなる人もいるのですから。それを思えば、生きていてくれるだけでありがたい。
おまけ
入学式が終わってゆっくりしたときに、ムスメと二人で本屋さんに行き、ドリルや参考書を買いました。
あらかじめ使用する教科書の出版社をメモしておき、その出版社が出しているものの中から、各教科1冊ずつムスメに自由に選ばせました。
追われることが嫌いなムスメは、薄いものばかり選びましたが、ムスメの好きにさせました。
そのドリルなどは、互いにヒマなときにやらせ、私が○をつけてやりました。(2年生からは自分で○をつけるやり方に変えました)
こう書くと、なんだかりっぱな感じですが、やったことは1日10分程度です。それもできないときもありました。でも、それがその時の精一杯。
(入学式にカメラを忘れ、そのうちランドセル姿を撮らなくちゃと思い続け6年。ランドセル姿の写真は1枚もない。そんなもんです。)
あとは塾も通信教育もなしでのんびり過ごさせました。
「夕ご飯が楽しみで、元気に登校してくれたらいい!」くらいの気持ちでした。
(もっとも彼女は低学年の頃は学校に行くのが憂鬱で、毎朝メソメソしていましたが)
でも、少しずつ成長し、大学生になり、就職し、元気に暮らしています。